店長が行く! 第3回
「美術館、学校、子どもたち」

高橋直裕さん(世田谷美術館教育普及課長)×柏木陽(NPO法人演劇百貨店代表)

高橋直裕さん写真1

 演劇百貨店は、東京の世田谷に本拠をおくNPO法人です。 世田谷といえば「世田谷パブリックシアター」が有名ですが、多彩なワークショップを展開するこの劇場の基礎になった考え方は、先輩格の文化施設・世田谷美術館の教育普及活動の成功なくしては語れません。 今回は、世田谷美術館の高橋直裕さんに、美術館でのワークショップのこれまでと現在をお話しいただきました。

◆ 先生にモテなかった子ども時代

――まず、高橋さんの子ども時代の話をお聞きしたいんですが。

高橋:大人に意見されるのがいやだったので、非常に反抗的な子どもに見えたんじゃないですか。 学校の先生には全然モテなかったですね。 絵を書いたり、作ったりするのは好きだったんだけど、先生が僕のこと嫌いで、絶対いい成績をつけてやらないというの(笑) 私情で成績をつけるものなのか、と子ども心に憤慨したわけだけれど。

――じゃあ、小学生の頃の思い出というと…。

高橋:僕の時代は、まだ暖房がだるまの格好をした石炭ストーブだったんだよ。 日直になると、石炭小屋に石炭を取りに行ってさ、掘って、持って来て、くべて…。 そういうのが楽しかったと思う(笑)。

――そんな高橋さんは現在、美術館における子どもを対象にした教育普及プログラムの先頭ランナーですよね。 どんな経緯があったんですか。

高橋:美術大学を出たあと三年間別の仕事をして、世田谷美術館をつくるための準備室に最初の学芸員として入りました。 で、86年に世田谷美術館がオープンしたとき、自分がここでやりたいことって何かなと考えた。 やっぱり普通の美術館ではつまんないよな、と思ったのね。 そこで、とりあえずワークショップをやったら、とても反響があった。 それじゃもっとやろうと、寝る間も惜しんで働いた。

 最初は、教育普及活動は美術館の中でも認知されなかったんだよ。 もちろん、僕のやり方も悪かったんだけれど。 それが続けるうちに、だんだん繋がっていって(如月)小春さんやいろんな人たちとの出会いがあって認知されていった。 もともと「展覧会だけやってればいい」という甘い気持ちで美術館に入ったんじゃないんです(笑)。

◆ ゼロからの出発、そして現在

高橋直裕さんと柏木写真

――ところで最近の世田谷美術館は、どんな教育普及プログラムが中心なのですか。

高橋:子どもだけではなく、大人も対象にした企画で「タノシサ・ハッケン・クラス」というさまざまな講座をやっています。 美術館の中を探検するミュージアム・オリエンテーリングや、美術館の外に出て建物を見る企画、あるいは山の中に入って作品を作ったりするプログラムなんかですね。

――私たち演劇百貨店の活動は、世田谷パブリックシアターの演劇ワークショップから発展的に生まれたものです。 この伏線として、劇場ができる前に、世田谷美術館で小学生対象の演劇ワークショップがありました。

高橋:その企画は、小春さんが「ゲンキニ・エンゲキ」というタイトルで始め、その後は木野花さん、生田(萬)さんに講師をお願いし、約十年続きました。 衣装も物語も、シナリオも参加した子どもたちで作り、十日間で最終的には上演会まで。 目的はプロセスね。 いろんな表現方法を体験し、知らない者同士がコミュニケーションを深める、というのを目的にやってたんですよね。

――美術館で演劇、というのは不思議な感じもしますが。

高橋:開館当時、館長もいってましたが、芸術の各分野が越境しはじめて、あえて美術、音楽、演劇と縦割りに切ることがあまり意味のないものになってきたんですね。 だから、この企画も流れの中で自然にスタートできました。

――現在は、やっていないのですか。

高橋:これで終わりだと思っていないんだけれど、自分たちがだんだん楽しめなくなってきた。 参加する子どもにとって新鮮なだけでは、やっぱりダメなんですよね。 僕たちの方が一緒に楽しめないと。 少しずつマンネリ化してきてしまった。

 出発点はゼロだったんだから、何でもできるはずなんだよね。 でも、切り替えがスッといかないのは、十何年やってきた中でいろんなことに縛られて、発想し直すことがなかなか困難になっているからでしょう。 それは、実績だともいえるかもしれないけど、枠から出ていけないジレンマも感じます。

――十年で、美術館を取り巻く状況も変わったのでしょう。

高橋:たとえばスタート当初は、世田谷美術館のワークショップと言うと「ワークショップって何?」といわれた。 もちろん、演劇だとか、建築には使われている言葉だったけれど、美術館で「ワークショップ」という言葉を使うということはあまりなかった。

 ところが最近は美術教育界でも研究が盛んで「ワークショップはものを作ること、展覧会を見るのは鑑賞教育」といつの間にか分けて定義づけられるようになってしまった。 僕は、美術館のアクティブな活動全般をワークショップとして考えていたんだけど、逆にこの言葉が誤解を生む原因になってしまった。

――プログラムからは「ワークショップ」ということばがなくなりましたね。 最近は、世田谷美術館のプロラムも落ち着いた内容になってきた、と思うのですが。

高橋:どうなんだろうな。 いろんな段階があると思うんですよ。 それは自分自身も考えるところなんだけれども、今までは「やりたいことは全部やりきる」時代だったんですよね。 いろんなワークショップを通して、ひたすら発信しまくりだった。

 ほかの美術館がやらないこと、美術館のイメージを変えることをやり続けることで世田谷美術館の存在みたいなものをアピールしたかったし、それと同時に、いろんな人に美術館に入り込んで来てもらいたかったし、とにかく自分はいろんなことをやりたかったってのもあった。 いま落ち着いているように見えるのは、ずっと懸案だったところを地味に固めているからだと思いますよ。

◆ 美術館としての基礎体力づくり

高橋直裕さん写真2

――懸案というのは何でしょう。

高橋:美術館としての基礎体力的な部分です。 例えば、地元の学校との連携、これはずっと課題だったんです。 整備を始めたのはちょうど三、四年前。 学校に美術館の人間がいって、彼らも美術館に来てというサイクルをやっとスタートさせて、それが今、連携を積み上げてきたことによってだいぶ固まってきた。

 詳しくいうと、従来の鑑賞教室のシステムを発展させたものなんですが、ただ漠然と美術館に展覧会を見に来るのではなく、美術館はこんなに面白いところなんだというモチベーションを持ってから、子どもたちに来てもらうための仕掛けを考えたということなんです。

 希望した学校には鑑賞教室に来る前に、美術館のスタッフが学校へ出向いて図工の授業を担当する。 見に来てもらう展覧会によって全然プログラムが違うんですが、それを授業でやった上で美術館に来てもらう。 同時に、合同研究会を行ったりして、学校の先生と常日ごろからコミュニケーションをとる。

 だから、学校との連携というのは単に学校に行って何かするだけではなくて、先生方と話をして、お互いが必要としているものを交換し合うということですね。 そういった場を、毎月一回というペースで設けています。 だから、担当の学芸員たちは、先生方の比較的私的な飲み会にも呼ばれているようですよ。

――ボランティアの養成にも力を入れており、登録者は230人を数えるそうですね。 欧米のいわゆる「ドーセント」のことでしょうか。

高橋:ドーセントは「この絵は」「この作家は」というように作品に関する話をする人ですが、それとはちょっと違うかな。 「鑑賞ボランティア」と呼んでいるんですが、作品や物を前にしたとき、子どもたちの自由な発想を引き出す手助けをお願いしてます。

――ワークショップ的な考えは欧米から輸入されることが多いので、海外の事例が極端に重視されがちになる場合もあります。

高橋:欧米の例は本当に参考になるんでしょうかねえ。 僕は、必ずしもそうは思わないんだよね。 文化事情も歴史も違いますし、いろんな意味での条件が違う。 だから僕は、一度も参考にしたことはないし、その必要もないと思う。 アメリカでこうやっているというのも、ああそうですか、で僕なんか終わってしまう(笑)。 アメリカやヨーロッパで何をやってても関係ないです。

 日本の美術館のあるべき姿というのは、何かしらある。 地域をはじめさまざまな事情を見すえながら美術館の役割を考えていくべきですし、それに見合った手法も必ずあるはずですから、自分たちが一番有効だという手段を選んで行けばいいと思う。 世田谷美術館のワークショップも、とにかくひとつのプログラムをやり切ることによって、何が淘汰されずに残るのかという実験的な部分を目指しやってきた経緯があるんです。

――その中で、核になってきた思いは何でしょうか。

高橋:やっぱりワークショップなどに参加した人が楽しかった、面白かったといってる姿を見るのが好きなんだね。 いろいろ言っているけれど、結局そこなんだな。 美術がどうのというより、とにかく人に楽しんでもらうことが第一。 理論でも理屈でも何でもなくてね。

 そのために、今まで自分の頭の中から美術館というものが消えたことがなかった。 とにかく、寝ても覚めても、飯を食っている時も、風呂入ってる時も、次はどんな企画をやろうかと考えていた。 ここまで美術館に青春ささげてきたんだから、最近はちょっと遊んでもいいかなと思っています(笑)

2003年4月23日、世田谷美術館にて
聞き手:柏木 陽(演劇百貨店店長)、小川智紀(同番頭)、宮寺俊子(同フロアスタッフ)

2003/05/25